手相学の起こり

〇インドが発祥地

人間の生活は手の歴史である、といっても過言でないほど人間の文化の発展と手との関係は切っても切り離すことの出来ない、密接でしかも重大な意味を持っています。

しかも人間がそれぞれの固有の性格を持っているように、人それぞれの手は皆その人の人間性を現わしています。身近な例をとってみても、運動選手と文筆家の手は形から違っています。もちろん、男女の手の形の相違はいうまでもありません。

このように、私たちの手はそれぞれ違っていますが。それをただ違っているということだけではなく、その違いの中にそれぞれのその人品性や運勢があるということを発見したのは、近代ではなく、数千年も昔のことです。

手相学の発祥の地は古代インドであるといわれていますが、数千年も昔に、彼らインド人は人間の全身のしわとその人間の運命との間に深い関係があることを、幾多の実例の中から発見し、一つの運命学として研究しだしたんであります。

これをサムトリカと称しましたが、研究が進むにつれて、手のひらの筋が最も人間の運命と深い関係にあることを知り、今の手相学の元祖ともいうべきハストリカという研究が行われたのです。こうした研究の足跡は、現にインドの各地にある古い廃墟の壁画などに残されています。

〇旧約聖書ヨブ記にも

旧約聖書ヨブ記三十七章七節の一部に「神は人の手に符号もしくは印象を置き給えり、それはこれによりてすべての人に彼らの職分を知らしめ給わんが為なり」とあります。手に現われる様々な形は神が与えたものであり、それはそれぞれの形をただ知らせようというのではなく、それによって自分の職分、天分を知らそうという神意なのである、というのであります。

ヨブという人は、約四千年前のアラビアの一地方に住んでいた実在の人物で、その記録が聖書にあることからしても、すでに四千年前にアラビア地方でも手相学が行われ、研究されていたことが分かります。同時に、はるか以前にインドに発した手相学が、次第にアラビア地方に普及していったことが分かります。

ソロモン王といえば、ユダヤの偉大なる王ですが、彼も手相を信じていたらしく、旧約聖書の箴言書三章十六節には、「その右手には長寿あり、その左手には富と気品あり」と述べています。右手にはその人の寿命が現わされ、左手には財運や成功運が現わされるという、その当時の手相の見方の一つが表現されているわけですが、この流儀は今なおヨーロッパの人に用いられています。

〇古代ギリシアの哲人たち

ピタゴラスといえば紀元前約六百年前のギリシアの大哲学者ですが、優秀なインド文化にひかれ、はるばるインドまで出かけていき、宗教、哲学、神秘学など習得しましたが、彼の数多くの門弟の中から手相、人相などに優れた人が現われました。

ピタゴラスに次いで現われた哲学者アナクサゴラスは、人間の手がその人の運命を示すものであり、また病気を治す不可思議なものとして驚嘆し、「人間が万物の霊長であるのは、その手が優れているためである」といいました。

また有名なアリストテレスはその著書の中で、
「手は人間の諸器官の中で最も重要な器官である」、「手の線は生命の長さを現わす」、「手の線は、原因があって現れたものではなく、天来の感化力と個性のよって生じたものである」
等々、手の運命について述べています。

また、「自然が人間の手のひらに刻みつけた色々な線や紋によってその人の健康状態、性癖、運勢の判断をするのが手相術である。これらの線や紋は十人十色であって、決して同一のものはない」と説き起こし、生命線、自然線(頭脳線)、テーブル線(感情線)の位置からそれによる判断法を詳細に述べています。

彼は彼独自のやり方で科学的に裏付けようとしましたが、ついに科学では証明できない神秘の壁に突き当たり、「手の線は原因があって現れるものではない。天来の感化力と個性のよって生じたものである」といわざるを得ませんでした。

〇シーザーの逸話

アリストテレスの後にも多くの文学者によって研究されましたが、ローマ皇帝のオウガスタスが手相に格別の興味を示し、自らも学んだことはよく知られています。

ローマの英雄シーザー手相術に長じていましたが、興味深い逸話が残っています。

ある日、ユダヤ王へロデの王子と称する人物がシーザーに会いにはるばるローマにやってきました。容貌といい、その態度といい誠に堂々たる風格を備えていて、シーザーの部下は丁重に彼をシーザーのもとに案内しました。

ところがシーザーはその王子と称する男を一見すると、「お前はロデの子ではない!偽物目、帰れ!」と大喝して追い払ったのです。いぶかし気に訳を尋ねる部下にシーザーは、「彼の手には貴相がなかった。いかにユダヤとはいえ、いやしくも王子ともあろうものがお前たちと同じ手の形をしているわけではない。一見して偽物とわかった」といったそうです。

ところで手相術は中世になるとローマ教会の教理に反するということで圧迫を受け。手相術の研究は知識階級からジプシーたちに移ったのでした。しかし、その後1447年にある僧侶の力で手相学は復興し、書物まで出版されました。

〇手相のルネッサンス

十九世紀に入ると手相学は次第に盛んになり、フランスに二大学者が現われました。デバルロとダルパンチニーの二大家です。

デバルロは多くの人の手相を観察し、『新手相学』『手の神秘』といった著書を出しました。その中で彼は、手相は経験科学であることを主張し、新しい原理を説明しました。

「手の線や紋は、絶え間なく注がれる宇宙の電流が、その人の脳組織の状態に応じて、最も敏感な手の表皮に刻まれる。したがってその人間によってそれぞれの線や紋が異なる。」というのでした。

もう一人のダルパンチニーは、ナポレオンの士官だった人物で軍務のかたわら1857年に『手相の科学』と称する一書を発表しました。

二人の研究に刺激されて二十世紀にはイギリスにキロ、ペルマ、またアメリカにベンハンの大家が出現しました。

現代では、もはや手相学は、運命学の大きな一分野として、もはや誰一人疑うことのない学問になりました。