ムサシの国

〇ムサシの国の誕生

『日本書紀』のよりますと、5世紀の頃、南関東には3つの大きな国がありました。知知夫(ちちぶ・埼玉県)、牙邪之(むさし・埼玉県大宮市辺り)、胸刺(多摩川の下流)の3つであります。これらの国々は、やがてヤマト政権によって次々に従えられていきました。やがて、牙邪之と胸刺の間に争いが起きて、胸刺は滅ぼされてしまいました。牙邪之の勢いは、北は大宮の辺りから南は川崎に至るまでの南関東の大部分にいきわたりました。

このようにいくつかの国と国が争いを続け、征服しつつ、武蔵の国が誕生しました。

〇橘の地名

川崎市の大部分は、昭和の初めの頃まで、神奈川県橘樹(たちばな)郡といっていました。その橘樹の名の由来には『古事記』に以下のように書かれています。

ヤマトタケルノミコトは、東国を従えるために相模(さがみ)の国にやってきました。三浦半島から房総半島に渡る途中に、ちょうど走水(はしりみず・三浦市)に来たときに、海の神が怒り、大波を起こし、進むことも退くことも出来なくなりました。これでヤマトタケルノミコトの命運も終わりだと思われたとき、妻のオトタチバナヒメがその身代わりになって、荒れ狂う波の上に身を投げました。そのため、海の神の心が和み、ようやく波はおさまり、ヤマトタケルノミコトは危険をまぬかれて、無事に東京湾を渡り房総半島に着くことが出来ました。

川崎市高津区の子母口にある橘樹神社は、そこに流れ着いたオトタチバナヒメの着物やかんざしを埋められたといわれ、ヤマトタケルノミコトとオトタチバナヒメをまつったところであるといわれています。

このヒメの名をとって橘樹郡や橘郷、橘村の地名が付けられたと思われます。また、子母口は、大昔、海の入り江で、潮口にあたっていたところから、このような地名がおこったといわれています。

ヤマトタケルノミコトの物語は、その他にもたくさんありますが、ヤマト政権の命令で、遠く蝦夷(えぞ・北海道)や熊襲 (くまそ・ 古代日本九州の西南部の地域)の征伐に向かった勇者として語り伝えられました。

『日本書紀』によりますと、安閑天皇の元年(534年)に、ヤマト政権に武蔵の国の橘花(たちばな)・多氷(たび)・倉巣(くらす)・横渟(よこぬ)をヤマト政権の領土として差し出し、屯倉(みやけ・政権の直轄領)とした、と記されています。これは後の橘樹郡・多麻(たま)郡・久良岐(くらき)郡・横見郡といわれています。