4~5世紀の川崎

〇4~5世紀の川崎

4~5世紀も橘樹郡には、大伴部(おおともべ)や物語(もののべ)、飛鳥部(あすかべ)、服部(はとり)と呼ばれる部民がいました。これらの部民は、色々な技術をもって、ヤマト政権につかえる手工業者の集団でした。

橘樹郡の豪族たちは、天皇や中央の豪族だった大伴氏や物部氏たちにいつしか従えられていきました。

こういう人たちがどうして遠い川崎の地方へ移ってきたのでしょうか?はじめは、武蔵の国の内乱を防ぐために政権から遣わされた部民たちがこの地に住みつき、新しい権力者となりました。この権力者たちを足掛かりにヤマト方面から次々に移り住み、ヤマト政権も武蔵の国に沢山の領地(屯倉)を持つようになりました。

屯倉というのは政権が直接支配する土地です。南加瀬、北加瀬(もとは大倉郷)・小倉・矢上などという地名は、もと屯倉のあった場所でした。

こうしてヤマト政権から部民が送られてくると、地方の豪族が治めていた人民や土地を割いて分け与えなければならなかったので、地方の豪族は痛手を被りましたが、一面新しい権力者として、人々に中央の進んだ学問や技術を広める結果となりました。

また、この頃朝鮮から帰化する人も多く現われました。その大部分の人達は、人口の少ない武蔵の国へ、数人または数十人の団体でたびたび送られてきました。そして、登戸の対岸にある高麗(こま)郷(のちの狛江村)や南武蔵の各地に住みつき、金工・木工・陶工をはじめ、養蚕・はたおりなど進んだ技術や学問を伝え、この地方の開発に大きな働きをしました。これらの人々が作った祝部式土器は、弥生式土器の進んだもので、製法は朝鮮から伝わったものだといわれています。