奈良・平安時代の川崎

〇奈良・平安時代の川崎

この頃の橘樹郡は、御宅(みやけ)・橘(たちばな)・高田・県守(あがたもり)の4つの里(後に郷と改められた)にまとめられていました。1郷は50戸なので4郷で200戸、1戸平均で10人家族とすると、2000人が橘樹郡の人口だったと推測されます。

これらの里は、現在の登戸辺りの多摩丘陵のまわりに広がる低地にあったものと思われます。後に橘郷に小高駅家(おだかのうまや)という里ができて、駅家郷(えきやごう)となり、橘樹郡は5郷となりました。

こうして、大化の改新以後、この地方は都とのつながりを持つようになり、はるか離れた郡のいぶきは、府中の国府の役人を経て、さらに、橘樹郡司の手を経て、各々の里に及んできました。

この地に建てられた影向寺(ようこうじ:南武線武蔵中原駅近くの中原街道、千年の十字路を過ぎ、右に曲がり数分歩いた右手の丘の上にある寺)は、郡司の手で建てられた「私寺」といわれるもので、いち早く都の仏教文化をとり入れようとする郡司の意欲がまざまざと感じさせられるものです。

しかし、昔ながらに田畑で手をよごす農民たちにとって、新しいいぶきは、新たな負担となり、苦労の始まりとなっていきました。

〇拓かれる多摩丘陵

表向きは、中央の政府に従うようになった地方の豪族たちも、心の底では決して言いなりにはなっていませんでした。いつも考えていたことは、自分の土地をどのように守り、増やし、力を大きくするか、ということでした。

豪族たちの土地に対する執念は、公地公民(土地と人民を国家が直接支配すること)となってからもますます強くなっていきました。

その頃、農民に与えられていた口分田は、人工が増えるにつれて底をついていきました。土地が無いからといって与えないわけにはいけないので、朝廷では地方で力のある郡司・里長などの豪族や寺社に開墾を進めました。このため多摩丘陵のあちらこちらに新しい田や畑が拓かれました。

〇市ノ坪

このほか国司や郡司に命じて土地の利用が十分にできていない田畑には、縦・横の大道を通じて、碁盤の目のようにきちんと耕地整理(条理制)を行いました。この北西の隅の区域を〝市ノ坪〟といいました。川崎市の市ノ坪・小杉・苅宿・久本・末長などにはこの跡が見られます。